上杉鷹山 |
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■1.Uesugi Yozan, who?■ 1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けた。 「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」 ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」 おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人は いなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直し に成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、 学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、 青少年に敬愛されてきた人物である。
上杉鷹山とは、どのような人物なのだろうか。そしてなぜケ
ネディは鷹山を尊敬していたのだろうか。
上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康 により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに 3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名 断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされて しまった。 収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲 して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちま ち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半 分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は 11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本の ような深刻な財政破綻におちいっていた。
収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、
かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少してい
た。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる
物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥って
いた。
鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた 歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、 人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底した ものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、 次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代 々の家訓となる。
藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、 「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。 しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民 の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。
鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てるこ とを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあ ったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この 平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、 「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したの である。 やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、 自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。 家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを 覚えた。 米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大 修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せず に、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、 三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。 もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。 橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩 主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋 を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍の くせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武 士たちは作業にうちこんだ。
やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに
集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえ
たちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗って
は渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は
言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに
一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践
しはじめたのを何よりも喜んだのである。
貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思 いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、 沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉 は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生 き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一 つである。
さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料
理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、
自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70
歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与え
た。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増
えていたという。
鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。
・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合
5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥と した。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助 けた。 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、 わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙 台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされて いるが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓 死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、 他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢 藩出身のものは一人もいなかった、という。
米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として
3度も表彰を受けている。
それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。 国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、 あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。 ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節である。国民がみ な国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国 家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。 前号で紹介した現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のた めの政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国か らの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものだ。 国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それ ぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助 と互助の精神が不可欠である。それがあってこそ、国が成り立 ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネ ディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美し い国造りにつながることを実証した政治家であったからであろ う。 しかし、我が国の戦後教育は、鷹山公をことさら無視してき た。それは「扶助」のみを訴える戦後の社会主義的風潮からは、 「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがた いものがあったからであろう。 財政再建も、また教育や政治の改革も、「自助・互助」の精 神の復活が鍵である。それを教えてくれている人物は、我々自 身の歴史のすぐ手の届くところにいるのである。 ***---*** |
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